みんなが幸せになる経済と社会のしくみを考えよう

資本主義に替わる理想的な社会システムと未来のビジョンを提示します

第一章 資本主義に替わる社会システムの考察

資本主義の修正ではダメな理由

 まえがきで述べたように、今の日本は様々な問題が山積しています。政治家もその問題に対して様々な解決策を打ち出しますし、それに対して評論家やコメンテーターが批判したり、修正案を提示しますが、それは一面的なものばかりです。たとえば、年金の財源不足の対策案として企業に定年を延長するという打開策は年金の財源の対策としては良いのですが、それは若年者の雇用を奪ってしまいます。その他にも、家庭においては無駄な出費を抑えて節約することが快適な生活のために必要なことですが、それをどの家庭も行えば消費が冷え込み、経済が不活性化し、社会全体が不景気になります。これは合成の誤謬と言われることです。
 貧富の格差は広がり、どのような政策を打っても「あちらを立てればこちら立たず」といったジレンマの状態の中で、永続可能な社会が実現できるでしょうか。資本主義も共産主義と同じように、終焉を迎える日が来ると薄々感じている人も増えてきました。しかし、その代替となるものを誰も見つけられずに、誰も提案できずにいました。

資本主義というOSを書き換える

 少しコンピュータシステムになぞらえて説明しますが、それがかえってわかりにくい方はここから10数行は読み飛ばしてください。
 不調なパソコンがあるとします。その不具合が特定のアプリケーションソフトの下でのみ発生する場合、その不具合を起こしているアプリケーションを修正すれば不具合は解決します。具体的には、そのアプリケーションを再インストールしたり、不具合が修正されたバージョンのものでアップデートしたりします。しかし、いくつものアプリケーションが不安定という症状の場合、原因はその土台となるオペレーティングシステム(Operating System, OS)に問題があると考えられます。その場合、OSレベルでの修正が必要になります。
 私は、今の時代はOSレベルでの大胆な手直しが必要だと考えます。つまり、資本主義という不具合が多すぎるOSを脱却して、新しいOSへ移行すべき時期だということです。新しいOSとはWindows XPがWindows Vistaに換わるようなアップグレードといったレベルの変革ではなく、Windows系OSをLinux系OSに換えるような大胆な変革を意味します。新しいOSに替えると、今までのアプリケーションがそのままでは動かない場合が少なくありません。
 では、これから一緒に資本主義に替わる新しい経済システムはどのようなものであるべきかを考えてみましょう。ちなみに、このようにOSになぞらえて社会を考える手法は2ちゃんねる(インターネット上の巨大掲示板)からの引用で、私のオリジナルではありません。以前に私もその掲示板にこの経済論を紹介したこともあります。

バイオミメティック社会論の基本思想

 近年、バイオミメティックス(biomimetics)という考え方が注目されています。日本語に直すと「生体模倣」、「自然に学ぶものづくり」ということです。いくつか例を挙げると、カタツムリの殻に汚れがつきにくいことから、その成分を参考に汚れにくい壁材や流し台のシンクが開発されました。その他にもサメの皮膚を参考に開発された競泳選手用の水着などがあります。人間の科学文明が発達したと言っても、自然の叡智には遠く及びません。そこで、自然から学ぼうというのがバイオミメティックスの考え方です。
 バイオミメティック社会システム論は血液や人体の循環の仕組みを参考に考え出されました。人体の細胞は末端の細胞にまで血液がくまなく循環し、栄養や酸素が運ばれます。また、足の小指の先の小さな傷であっても、人体全体はそれを傷みとして認識し、それを修復し治癒します。
 しかし、人間社会は残念ながらそのようにはなっていません。末端にまで血液が循環せず、壊死している状態です。しかも、(適切な表現ではないかもしれませんが)社会の末端の人々の傷みは他人事のようです。

 人体の各細胞は人体全体の中での自分の役割を果たしながら、そして人体全体は人体の末端の細胞までも生かしながら、一個体の人間として有機的なバランスを取り、成り立っています。つまり、人体全体は各細胞のために、各細胞は人体全体のために、互いに助け合いながら生命活動を営んでいます。
 ラグビーの世界でしばしば「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン(One for All, All for One)」ということが言われます。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」ということです。このような美しい社会が実現すればいいと思いませんか? では、人体のシステムを私たちの社会システムに応用すれば、美しく理想的な社会が実現できるはずだと思いませんか?

 ここで用語の説明をしておきます。バイオミメティック社会論は私の造語ですが、それは人体のシステムを社会システムに応用してみようという考えです。そして、人体の循環システムを経済に応用したものが、バイオミメティック経済論となります。これも私の造語です。私が知る限り、現時点で人体の仕組みを社会システム応用しようという考えは他にありませんし、人体の循環の仕組みを経済に応用しようという考えも他にないので、バイオミメティック社会論もバイオミメティック経済論も私がここで主張する社会論、経済論を指すことになります。
 バイオミメティック社会論とか同経済論というのは広い範囲の用語ですので、私が主張しているバイオミメティック経済論を互助経済論と呼び、バイオミメティック社会論を生体社会論と呼ぶことにします。今後、説明の都合上、資本主義社会に対比して、生体社会論システムに基づく社会のことを示す時に、生体社会と呼ぶことにします。仮称ですので、今後この名前は変わる可能性があります。

資本主義の修正ではもはや乗りきれない

 資本主義から別の社会システムに乗り換えるというような大改革するのは非常に困難ですし、現実性が低そうなので、資本主義を修正すればいいという考えもあります。あなたはどう思いますか?
 全く新しいイデオロギー(社会システム, ideology)である生体社会システムに移行する必要があると主張する私はここで資本主義の修正ではダメだということを証明しなければなりません。共産主義というイデオロギーが間違っていたように、資本主義も同様に間違っているということを示さなければなりません。そうでないと、資本主義を修正すれば何とかなるんじゃないかと、いつまでも資本主義から抜け出せなくなるからです。
 茹でガエルのお話をご存知でしょうか? 「熱湯の中にカエルを入れると、カエルは『熱い!』と飛び出して助かりますが、ぬるま湯にカエルを入れて、徐々に温度を上げると『まだ大丈夫、まだ大丈夫』と言って飛び出す機会を失い、茹で上がって死んでしまう」という話です。
 これはたと喩えであって、実際に後者の場合でもカエルは飛び出すとのことですが、その意味することはお分かりでしょう。資本主義が完全に間違っているという認識があれば、資本主義を飛び出そうとするでしょうが、修正に修正を重ねているうちに、資本主義から抜け出せなくなって、社会が崩壊してしまうことになりかねないということが言いたいのです。

 18世紀にアダム・スミスという経済学者がいました。彼は「神の見えざる手」ということを言いました。神の見えざる手とは、市場経済に任せておけばそこには神の見えざる手が働いているので全てうまくいくという考え方です。何かが社会に必要ならばそれは市場を通じて民間が勝手に商売を始めるので政府は余計な事をする必要はなく、逆に政府が介入すると市場経済の動きが歪むだけだから、何もしなくてもいいという考え方です。
 しかし、それは間違っているということが分かりました。どの国の政府も所得の再分配をしなければ格差が広がって社会が成り立たないことが明らかになりました。ただ、日本においては、この所得の再分配機能が十分に機能していません。そのために、経済学者はそこを修正すれば何とかなると考えるのかもしれません。

 冒頭で格差の拡大とか失業率の問題とか財政赤字とか、資本主義経済システムの数々の問題点を列挙しました。しかし、それは一般的に言われていることで、目新しいものではありません。それらが問題であるということは言うまでもありませんが、それらの問題にしても、資本主義を修正すれば何とかなると考えている人が少なくないようです。逆に、資本主義の修正には限界があると感じている人も、それに替わる経済システム、社会システムを描くことができないために、有効な具体策を提示できずにいます。

 資本主義がどうしたって修正不可能だということを証明するには、資本主義の中に矛盾があるということを指摘する必要があるのかもしれません。物事には全てメリットやデメリットがありますが、そのものの中に矛盾が内在しているならば、それは体をなしていないということでしょう。

いくら努力しても資本主義を立て直せない

 こうした絶望的な状況を克服しようと、知識人らがテレビメディアや動画サイトで討論をし、解決策を模索し、心ある人は具体的なボランティア活動をしています。しかし、それらは残念ながら基本思想が間違っている資本主義内でのことなので、ほとんど意味がありません。資本主義という沈みゆく船の延命措置に過ぎないと前に述べた通りです。

 ある人は若者の失業率が高いことを憂いて、ボランディアで就職支援活動をしています。目の前の若者の就職がやっと決まって、その若者と喜びを分かち合う時は充実感と達成感に満ちて、この活動に携わって良かったと喜びを感じると言います。
 しかし、この人の善意の活動は本当に社会にとって有意義な活動なのでしょうか? 資本主義社会での就職活動は椅子取りゲームのようなものです。社会全体が必要とする労働者の数が変わらない中で、空いている椅子を苦労して探して、目の前の若者をそこに座らせても、その行為は別の人の就職の機会を奪っているに過ぎません。椅子が10脚程度の椅子取りゲームなら、自分が座ったことによって、それに座れなかった人がはっきりと分かりますが、数千万脚で椅子取りゲームをすると、自分が座ったことによって、誰かがあふれたことに気づかないのです。パイの奪い合いの資本主義の中で、そうした活動は無駄であって、それを解決するには全く別のシステムによらなければならないことに気づかなければなりません。

 飲食店何軒も経営しているある青年実業家はテレビ討論でこのように言いました。  「俺は多くの人を雇い、税金も多く納めている。みんな俺のようにもっと頑張れば様々な資本主義の問題は解決するはずだ」と。
 そういう金持ちは少なくありません。以前にホリエモンこと堀江貴文氏もそのようにテレビで発言している場面を見ました。この言葉が精神論で、具体策を示していないから批判しているのではありません。

 彼のお店は従業員を何千人も雇い、年商何億円も稼ぎ出し、彼は高額な納税をしています。しかし、彼の飲食店の大躍進の陰で、利益が減少した店、閉店を余儀なくされた店があり、それに伴い解雇されたアルバイトや労働時間を減らされた労働者、賃金を下げられた労働者がいることになります。結局、社会の別の所で失業者が増え、税収が減っているわけです。競合店から失業した人が生活保護を受けたり、より多くの人の賃金が減ったり、顧客を奪い合うという仕事が増えたりすることなどの弊害を考えるならば、彼の社会貢献分というのはほとんどないということになります。結局、税金を納める人や雇う人が変わっただけで、社会全体としてはそれほど差がないのです。
 経済学者はどうしてこのことに気づかないのでしょうか? それは資本主義の宿命であり、致命的な欠点です。私の提唱するバイオミメティック経済論、バイオミメティック社会論にはそのような致命的な欠点はありません。

 また、政治家も知識人も、国会やテレビメディア内で日本再生のための方法論を討議します。いかに日本が国際社会で生き残るかということを話している時に、相手国の不利益についてはほとんど誰も考えていません。日本が得をするために、言外に他国に不利益を押し付けるような議論がなされています。

 これらは資本主義のアーキテクチャ(構造, architecture)に問題があることに起因していると思います。私の主張する生体社会論には世界全体が幸せになる方法があります。

お金について考えてみよう

 動物はお金がなくても生きられるのに、人はなぜ、お金がないと生きられないのでしょうか? 私たち人間が、アリやハチの社会のように、お金に縛られなくても生きられる社会を作ることは不可能なのでしょうか? そうした疑問からこの経済理論は生まれました。

 現代は投機マネーが世界中を駆け巡り、様々な問題を引き起こしています。私たちがパンを買う時のような実体的なお金とは全く違った性質を持つ「莫大な量の数値化されたお金」が株式市場でやり取りされ、それらが世界中を駆け巡り、原油価格を高騰させたり、小麦粉の価格を高騰させたりしています。その様相は、カジノ経済と呼ばれるように、マネーゲームであり、ギャンブルと何ら変わりません。普通のギャンブルならば参加者の自己責任ですが、好むと好まざるに関わらず、私たちはその影響を受けます。しかも、その影響は原油価格の高騰のように悪い影響がほとんどです。カジノ経済は今の資本主義の下で合法であるというだけで、それが与える影響はギャンブルよりも遥かに凶暴だと言えるでしょう。
 私たちが日常で使うお金、つまり財(商品)やサービスとの交換に使われるお金(前の説明で言うパンのお金)は、お金全体のわずか1~2%であると言われます。残りの大部分のお金は通帳上の数字として存在し、その数字が増えたり減ったり移動したりすることで、人が飢えたり、犯罪が起こったりしています。たかが数字がそのような力を持つというのは不思議な気がしますが、それは現実に起こっていることで、否定しようがありません。
 硬貨や紙幣といった実体のあるお金でも同様で、実体としてはただの数字や金属片や紙切れで、財やサービスと交換しなければ何の役にも立たないものです。しかし、それが人々を不幸にするのです。人々を幸福にもするじゃないかと反論するかもしれませんが、人を直接的に幸福にするのはそのお金と交換された財やサービスであって、お金そのものではありません。しかし、お金がその手助けをする、仲介をするというメリットも平等に評価しなければなりません。
 人々はお金に翻弄されます。貴重な人生はお金を儲けるために消費され、お金のために人を騙し、人を傷つけ、お金のことがいつも頭から離れず、人はお金に支配され、お金の奴隷となっています。資本主義社会の中で暮らす以上、私たちはお金の呪縛から抜け出せないようになっています。

 お金は汚いのでしょうか? お金は人類が作り出した道具です。「この世界に神様の手によらず、純粋に人間が創ったものがあるとするならば、それはお金だ」と言った人がいます。お金は物々交換の不便さを補い、価値の大小を測る尺度となる道具でもあります。そうした道具に対して、美しいとか、汚いという尺度で判断するのは無意味だと私は考えます。しかし、その道具が便利が良いか悪いか、欠陥が多いか少ないかといった基準で判断することはできるでしょう。それらの点から、私はこう考えています。お金は重大な欠陥がある道具であると。では、その欠陥とは何でしょうか。それを説明する前に、もう少しお金について一緒に考えてみたいと思います。

お金は必要不可欠なものなのか

 この世界から空気がなくなったら私たちは数分も生きてはいけません。太陽がなくなっても、水がなくなっても人類は誰一人として生きてはいけません。それらは人間の生存にとって必要不可欠で、何物にも換えられないものだからです。
 もし明日の朝、この世の全てのお金がなくなったらどうでしょうか? 社会は混乱し、人類は生きていけないかもしれません。しかし、お金が無い世界でも、人々がお金があった時と同じ活動をするなら生きていけるはずです。つまり、お金が支払われなくても農家は農作物を作り、企業は製品を作り、小売店は商品を販売するならば、理論上、社会はまわっていくはずです。もちろん、理論上のこと、思考実験上のことで、実際はそうになると人間社会はまわってはいかないだろうことは予想されます。

 つまり、ここで何が言いたいのかといえば、お金というのは酸素や水といったレベルで人が必要とするものではないということです。お金は人々が財やサービスを円滑に交換するための媒体(仲介の道具)でしかなく、直接私たちが必要としている財やサービスそのものではないということです。

お金は人を幸せにするのにふさわしい道具なのか

 ミツバチやサルなど社会的な動物は役割を分担して、協力して種の保存、個体の保存をしています。動物はお金がなくても互いに協力し、社会における自分の役割を果たしています。人間は万物の霊長と言われていますが、お金がないと協力できないとか、社会における自分の役割を果たせないということならば、私たちはある面ではミツバチやサル以下なのかもしれません。
 「人間社会は動物の社会のような単純な社会ではないので、お金が必要なのだ」という反論があります。あながち間違いではないと思います。人間も原始社会では物々交換をしていました。その後、物々交換の不便さを解消するために貝殻や石などをお金として使い始めました。当時、お金は人類にとって画期的な発明だったのです。
 しかし、金本位制から脱却し、実体がなく、お金が数字として世界を駆け回る時代になりました。その数字にすぎないお金によって、世界中の人が飢えなくてもすむだけの食料があるにもかかわらず、世界は飢餓の問題を抱え、アメリカのサブプライムローン問題が世界中を不景気にしてしまうということが現実に起きています。
 全ての道具に当てはまることですが、道具にはメリットもあればデメリットもあります。もちろん、お金にも当てはまります。昔のように、お金が物々交換の媒体としてのみ使われていた時代には、お金の持つ負の性質は影を潜めていましたが、現代のように、お金の量が増大し、世界を駆け巡るようになって、お金の持つ負の側面が顕著になってきたようです。
 強大な力を持つ道具は例外なく使い方によって、大きな善にもなれば、大きな悪にもなり得るという性質を持っています。それが持つパワーが強大であればあるほど、その影響は顕著になる傾向があります。ナイフの危険性と爆弾の危険性、爆弾の危険性と原子力の危険性を比べてみると分かるでしょう。それをどう使うかは使う側の問題であって、道具の責任ではありません。
 お金は人類が発明した有益な道具です。しかし、お金がグローバルに流通するようになり、お金の影響力があまりに強くなりすぎたために、お金の凶暴性がむき出しになって、社会の弱者に襲いかかっています。
 これを例えるならば、昔はニュートン力学で何ら問題なかったものが、宇宙に探査機を飛ばすような時代となり、アインシュタインの相対性理論が必要不可欠となったというようなものです。文系の人にはかえってわかりにくかったかもしれませんが。

お金は血液のようなもの

 一般に、お金とは人体における血液のようなものだと言われます。血液が人体の各細胞に栄養や酸素を送り届けるように、お金が企業や家庭や個人の間を循環することによって、物やサービスを行き渡らせるからです。一般社団法人全国銀行協会のサイト内に銀行の社会的役割についての解説がありますが、その中でも、「お金は経済社会の血液」とありました。(執筆時現在) また、そのサイト内にお金の持つ機能についても解説がありましたので、抜粋し引用させていただきます。

お金は経済社会の血液
お金はよく私たちの社会生活における血液に例えられます。ある時は企業から個人へ、ある時は個人から企業へ、またある時は個人・企業から国・地方公共団体へと、ちょうど人間の体の中を血液が循環するように流れ動いて、経済社会に活力を与えているのです。こうしたお金の流れのことをマネーフロー(資金循環)といいます。

お金の持つ機能
1.価値の保存機能
貨幣の名目価値は変化しないため、貨幣を持っていれば富を蓄えておくことができるということです。
2.交換機能(決済機能)
物々交換の経済では、Aを持っている人がBを欲しいと思っても、Bを持っている人がAを欲しくなければ交換は成立しませんが、貨幣をAとBの交換の媒介とすることで欲求の二重一致は必要なくなります。
3.価値の尺度機能
商品やサービスにはすべて値段がついています。一般的に値段の高い商品やサービスほど、私たちが感じる値打ち・価値も高いということになります。お金には、このように商品やサービスの値打ち・価値を決める物差しとしての働きがあります。

お金の望ましい状態とは

 お金がどのような状態にあるのが望ましいのでしょうか。
 日本ではデフレや不景気が問題になっていますが、不景気という状態はお金の循環が滞っているという状態です。逆に、お金の循環が良いと好景気ということですが、お金がよく循環することによって、物やサービスが人々の間を循環し、人々の生活は豊かに便利になります。そういった状態が望ましい状態です。
 人間も血液の循環が滞ると病気になります。逆に、血液が身体の末端の細胞にまで行き渡る状態が健康な状態です。
 しかし、人間で言う血液にあたるお金は隅々の細胞にまで行き渡っているでしょうか? 日本国憲法の第25条には、「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と謳われています。しかし、この日本においても、餓死者がおり、住む家のないホームレスもおり、働いても生活保護受給者よりも収入が少ないワーキングプアと呼ばれる人もいます。また、日本の自殺者は14年連続で3万人を超えていますが、自殺原因の中でも経済的理由が主たる原因の自殺者は少なくありません。

この章のまとめ

・資本主義に替わる経済システムに移行することが不可避である。
・お金は物やサービスとの交換をスムーズに行うための道具にすぎない。
・お金は血液のような働きをし、「交換機能」、「貯蔵機能(価値の保存機能)」、「価値の尺度機能」がある。
・お金が人々の間をくまなく循環する状態が望ましい状態である。