みんなが幸せになる経済と社会のしくみを考えよう

資本主義に替わる理想的な社会システムと未来のビジョンを提示します

批判や反論への回答

 現在、作成中で、下記の文章は暫定的なものです。(2013/09/06)

 この社会システム論に対しては好意的な意見も寄せられれば、反論も寄せられます。ここではよくある反論にお答えしていますが、全てを網羅できていないかもしれません。ここにない反論は「反論パターンの類型化」を参照してくだされば、解決すると思います。できれば、そちらを先に読んでいただき、自分で考えていただき、それでも解決しない場合、こちらのページをご覧ください。

共産主義社会と同じだ!

 この言葉は、理解度が低い人や生体社会論が広まると不利益を受ける人が憎しみを込めて発することが多い言葉です。それによって、他の読者の印象を否定的なものにしようとする意図があるようで、残念ながらバカといった侮蔑の言葉と共に語られます。また、その言葉と共に、「全員が貧乏になる」と主張する人もいます。

 共産主義とは「財産の私有を否定し、生産手段・生産物などすべての財産を共有することによって貧富の差のない社会を実現しようとする思想・運動」と一般に言われますが、生体社会は財産の私有を否定していませんので、共産主義とは違います。私は、生体社会は共産主義と資本主義のいいとこ取りとも言えると考えています。

全員が等しく貧乏になるしくみだ!

 生体社会内でのお金は循環して減りません。
 生体社会のお金の流れをおさらいしておきます。
「上限を超えた分と毎月の原価分は税として徴収されます。税はベーシックインカム(基礎所得)と社会全体のために使われます。」
 このどこで、お金が減るのでしょうか?

ベーシックインカム(基礎所得)を与えたら誰も働かなくなり、社会が崩壊する。

 ベーシックインカムと生活保護を混同しているのでしょうか? もう一度、違いをはっきりさせておきましょう。
 ベーシックインカムは無条件で、毎月、最低限の生活を保障する額を一律に支給するセーフティネットで、無条件ですので、収入に関係なく支給されます。(本来のベーシックインカム構想は無条件ですが、生体社会では年齢による差別化を導入しようと考えています。)
 生活保護は国が生活に困窮する国民に対し、最低限度の生活を保障する額を支給する制度で、収入や資産などを審査され、基準を満たすと認定されれば生活保障を受けることができます。その額は月額約13万円で、地道にアルバイトを1ヶ月間する額とさほど変わりません。さらに、医療費の免除などもあります。

 多くの生活保護受給者が働きたがらないのは、働いて収入があると受給が打ち切られるからです。本来、自立を助長することを目的とする制度であるにも関わらず、そのようになっていません。生活保護の場合、2万人を超える公務員の人件費を支払いながら、その制度を維持しています。
 それとは対照的にベーシックインカムはどんなに他に収入があっても支給されます。そこに審査の人件費も、行政の裁量も含まれません。ですから、多くの人はベーシックインカムだけで慎ましやかに生活することを望まず、働くことを希望します。

 「いやいや、最低限の生活が保障されたら、誰も働かないだろ」という人もいましたが、それはごく少数派です。もしそうであるならば、正社員や公務員は誰も残業をしないということになりますが、多くの人は喜んで残業をします。

働かない人にベーシックインカムを与えるのは腹が立つ。働かざるもの食うべからずだ。労働は尊いはずだ。

 あなたのいう「労働」とは何でしょうか?
 まずそれをはっきりさせましょう。資本主義社会でいう労働と生体社会でいう労働は違います。資本主義社会ではお金を儲けることが労働ですが、お金が儲からなければ労働ではありません。しかし、生体社会では社会に貢献する行為が労働であって、それに伴う収入の有無は関係ありません。下記に表にしましたので、比較してみてください。

報酬や対価を伴う社会貢献報酬や対価を伴わない社会貢献社会貢献を伴わない金儲け社会貢献もなく報酬もない
資本主義社会労働③ ボランティアで労働ではない⑤ 経済活動なので労働にあたる⑦ 不労働(収入なし)
生体社会労働労働にあたる位置づけ⑥ 無益なので規制すべきという考え⑧ 不労働(基礎所得あり)

 ①と②の報酬や対価を伴う社会貢献はどちらも同じなので考える必要はありません。
 次に③と④ですが、資本主義社会ではボランティアだけでは生きられません。しかし、生体社会ではボランティアだけでも生活はできますし、ボランティアの対価として貰える食料などがあればさらにゆとりが生じます。つまり、資本主義社会は「社会貢献をしても食えない社会」なのです。専業主婦(主夫)の家事労働もこれに該当しますが、こうした③や④の人に対して、「あなたはお金を稼いでいないので食事をする資格はない」と考える人は稀(まれ)でしょう。
 逆に、「社会貢献を伴わない金儲けをする人」とか「社会貢献度に比べてはるかに多くの報酬を得る人」は社会にとっては不要というか、人々の有益な労働に寄生している有り難くない存在です。しかし、こういった人たちに対して、「働かざるもの食うべからず」という人はいないどころか、むしろ尊敬し、称賛されることさえあります。
 回りくどくなりましたが、「働かざるもの食うべからず」を声高に主張する人は、⑦や⑧に該当する人に収入があることが許せないということでしょう。それについて考えてみましょう。

 とりあえず、3つの側面から「働かざる者飢えるべからず」と主張する根拠を示します。
 1つ目は、そういうしくみにしないと無益な競争が激化し、無駄な仕事が増えるからです。
 資本主義社会では社会に貢献的であるとかないに関わらず、経済活動をしなくては生活できません。そのため、就職という椅子取りゲームに溢れた人は貯金を切り崩すか、自営業を起こすか、生活保護を受給するか、犯罪に走るしかなくなります。起業するといっても、新しい分野を開拓するのは困難なので、結局既存の市場に参入して、仕事や顧客などの奪い合いをするしかなくなります。それは社会全体にとって無益な行為であることは既に説明しました。
 ベーシックインカムがないと、このように無駄な労働が増えるだけです。政府はハローワークのような就労支援に多額の税を投入して、少しでも失業率を減らそうとしますが、そのようにして無理やり失業率を減らしても社会全体にとってはほとんど意味がありません。職の奪い合いを壮大な椅子取りゲームだとすると、ハローワークに来た人を1人就職させると、つまり椅子に座らせると、どこかで1人が椅子に座れなくなるのです。つまり、就労支援は社会全体で見れば意味のない行為だということになります。
 そのため、経済学者や政治家は経済成長をさせ、椅子の数を増やすことが必要だと主張します。誰もそれを信じて疑いません。
 ちょっと待ってください。それは失業者をゼロにすることを目標にしていますが、本来の目標はそうではないはずです。つまり、社会全体で必要な労働力が確保できれば、失業者が多くても社会全体としては問題ないということです。社会全体で問題ないなら全ての人に最低限の生活を保障する額を支払っても構わないでしょう。

 よく分からなかった人のために、もう少し噛み砕いてお話ししましょう。
 数家族が集まって行うバーベキューパーティに例えてみましょう。
 資本主義の考え方は、食材を提供する人や調理や準備や片づけといった労働力を提供する人には、より多くの量の食事や高級な肉の部位などが与えられます。そして、食材も労働力も提供しない人には何も食べさせないという考え方です。
 それに対して、生体社会の考え方は、食材や労働力を提供する人がより良い食事にありつけるというのは資本主義のしくみと同じですが、何も提供しない人にも、最低限の食事は提供されるという考え方です。
 資本主義的なバーベキューパーティですと、仕事の奪い合い、食材提供の奪い合いが激化します。無駄な仕事が増え、勝者と敗者に明暗が分かれます。
 生体社会的なパーティなら、仕事の独占が起こりにくく、分担して仕事が進みます。生体社会では競争がなく進歩や向上がないと考える人もいますが、より良い食材が採用されることに変わりがありませんので、そういったことはありません。

 2つ目は、そうしないと治安が悪くなるからです。お金を得るために詐欺や窃盗といった犯罪が発生することが予想されます。生体社会は電子マネーなので、詐欺や盗難は発生しにくいですが、資本主義社会ではそうではありません。

 3つ目は、働く気のない人を働かせることに意味を見出せないからです。
 多くの人はベーシックインカムがあっても働きます。働けば収入が増えますし、働くことにも喜びがあるからです。資本主義社会には意味のない労働が多いのですが、そういった社会であっても働きがいがあるのですから、労働の大部分が社会貢献に直結する生体社会ではさらに働きがいが高まると考えられます。
 もちろん、生体社会でも進んでやりたがる人がいないような仕事もあります。そういった仕事は資本主義と同じく、賃金がインセンティブになります。ですから、労働力足りなくなることはありません。
 それでも働かない人にベーシックインカムを支給するのは腹立たしいという人もいます。そこまでしても働かない人は相当働きたくない人でしょう。そんな人を強制的に働かせることに意味があるとは思えません。そういった人の労働は質が低いでしょうし、そういった人がきちんと働いているかを監視するのも骨が折れます。だから、そういった人はベーシックインカムだけの貧しい生活のままで居させた方がいいと思います。
 それでも働かせたいというのなら、その人の居住地区の草取り、溝掃除、ゴミ拾いといった単純作業をさせ、その作業と引き換えにベーシックインカムを支給するなど、方法はいろいろ考えられますが、私はそこまでする必要はないと思います。そういった地域の作業は個人で参加できる公共事業として、その奉仕作業の参加者に配当した方がよほど効率的だと考えられます。

通貨が減価するなら貴金属などに換えて保有すればいいので、減価システムは成り立たなく、生体社会は成り立たない

 生体社会では、お金を貴金属などに替えることによって、お金が減少することは防げますが、それを運用してお金を増やすことはできません。  他方、資本主義社会では、お金にお金を生ませることは普通に行われます。実は、このお金を増やすことができるということが、資本主義システムの致命的な欠点なのですが、その説明は割愛し、別のところで説明したいと思います。
 ということは、生体社会で生活するにあたって、お金を使いますが、そのお金が底をついた時には、貴金属を換金する必要があります。それらの資産を減らしたくないのでしたら、働いて収入を得るか、ベーシックインカムの範囲内でつつましく生活するしかありません。貴金属などに換える方法でできることはそれが限度で、節税対策としての効果しかありません。資本主義社会でしたら、いくつかの不動産を持っていて、全く働かなくても、その家賃収入で標準的サラリーマンが朝から晩まで働いて稼ぐ額よりもはるかに高額な収入を得ている人が数多く存在します。同様に、株式を保有しているだけで豊かに暮らす人など、社会に全く貢献しないのに、社会からは多く貢献される(多く受け取る)人が山ほどいます。その分、社会に貢献する労働にしわ寄せが来ることは、算数の問題として考えても明らかです。

 さらに言えば、資本主義システムには、生体社会での減税対策など比べ物にならないほどの減税方法や脱法方法があります。農業従事者や自営業者などの収入の捕捉は非常に困難です。企業間の価格協定は関係者の全てが口をつぐんでしまえばいくらでもできます。談合も同じで、企業や政治家が秘密にしておけば何とでもなります。悪徳商人と悪代官の悪事を屋根裏から風車の弥七が聞いていて、黄門様が成敗するというのはドラマの中の出来事です。

 資本主義システムと生体社会システムをフェアに評価するのでしたら、生体社会の1つの抜け穴を指摘するのと同様に、資本主義社会の抜け穴に対しての弁明もすべきではないでしょうか? それをせず、生体社会だけに反論するのは、資本主義肩入れ型の反論ということになります。念の為に繰り返しますが、お金を貴金属などに換えるのは、せいぜい節税対策で、社会システムそのものを破壊するものではありません。しかし、資本主義に潜む欠陥は、システムそのものを破壊するものが多いのです。上記に挙げた以外にも、いろいろあり、生活保護が抱える諸問題もあります。1ヶ月間アルバイトをするより、働かず生活保護をもらう方がより多くの収入が得られます。医療費が無料になるので、悪徳医者と結託して、診療報酬の一部をキックバック(見返り)してもらうという不正方法が可能になり、実際そうしている医者もいます。
 資本主義社会にはこのような不正がはびこっています。違法行為だけでなく、合法的にズルいことをする手立てはいくらでもあります。でも、全ての人がそうするわけではないので、社会が成り立っています。とはいえ、現代の日本は悪徳官僚、悪徳役人、悪徳政治家、談合をする悪徳企業などが、私たちの税金を食いつぶしていて、その数があまりに多いので、日本は破綻への道を突き進んでいる状態です。私は、生体社会システムの方が税制がシンプルで、自動化されていることなどから、不正や脱法行為は少なくなるのではないかと考えています。

 資本主義にそれ以上の不公平があることは認めるが、やはり通貨が減価しないようにする人と不公平があるのが許せないと思う人もいるようです。そういった方は、どうぞ遠慮無く通貨を貴金属に交換するといった手段を講じてください。同じ収入しかないなら、社会全体のために有効に使われる税をできるだけ支払いたくないなら、そうした方がいいでしょう。僅かな不公平が我慢できない人というのは、働くことが損なことだと感じている人です。社会に貢献することに喜びを見いだせない人です。えてして、そういった人の労働は自主的に喜んで働く人の労働と比べて質の低いものです。そういった人が一定程度以上存在しても、生体社会は崩壊しません。
 もうこれで充分な回答になったと思いますが、さらに言うならば、生体社会は電子マネーの世界ですので、累計納税額やベーシックインカムでの累計還元額が口座上で確認できる仕組みになっています。それにより、その人の社会に対しての貢献度が分かります。社会に対する貢献度が高い人に対して、何らかの特典を設けることによって、節税対策の効果を弱めることができます。そのような工夫をすることによって、不公平をできるだけ少なくすることができます。知恵を使えば様々なことが回避できます。法で規制するというのもその手段のひとつですが、多くの場合、法で規制するより先に手立てがあれば、それを選択する方が良いだろうと感じています。

じゃあ、コミュニティ内の通貨を日本円や外貨に換えて、運用したら?(上の反論の続き)

 「だったら、その資産を海外(もしくはコミュニティの外)に、外貨や貴金属や不動産として持っていたら、運用してお金を増やすことができるから、その資産家は生体社会でも豊かな生活をし続けられるじゃないか」とさらに反論する人もいます。
 そういった反論も想定内です。あなたが生体社会を弁護する側だったらどう答えるか考えてみてください。

 それは生体社会にとって何ら問題ないことで、破壊的なものではありません。その資産家が外貨を稼いで、生体社会内で使用するなら、外貨が必要な会員に対して使うか、外貨を必要とする生体社会政府に対して使うかということになります。これは政府にとって望ましいことです。
 「でも、それだとその資産家は具体的な社会貢献をせず、豊かな生活をすることが許されることになりますが、それでいいんですか?」と言う人がいます。
 「いいですよ。それが何か問題でもありますか?」
 「でも、それはズルいということでしょう?」
 「ズルいかもしれませんが、それは生体社会にとって破壊的な行為ではありません。」

 生体社会で、お金の運用によって通貨量を増やすことは社会にとって破壊的なことですし、運用によって生体社会で生み出された商品やサービスを対価なしで受け取る人が増えることも危機的なことです。しかし、コミュニティ外や海外での運用はそのどちらにも当てはまりません。資産家などによって外貨が生体社会にもたらされることも、普通の生体社会の会員が生体コミュニティ外で汗水垂らして外貨を獲得するのも、コミュニティにとっては同じことです。

通貨の減価が本当に好景気をもたらすのか疑わしい。机上の空論ではないか。

 「理論はだいたい分かったが、実際にそれが社会で通用するのか疑わしい」という批判もあります。特に、通貨の価値が減っていくというシステムがうまく機能するとは思えないと感じる方が多いようです。

 実は、歴史を紐解(ひもと)くと実際に減価する通貨のシステムが採用された事例があります。
 1930年代初めのことです。オーストリアにヴェルグルという小さい田舎町がありました。その当時で人口4300人ほどの街でしたが、その街も世界大恐慌の影響を受け、約500人の失業者を抱えていました。新しく市町長になったミヒャエル・ウンターグッゲンベルガーは、シルビオ・ゲゼル(Silvio Gesell, ドイツ人実業家・経済学者、1862~1930)の唱えた自由貨幣の発行を1932年7月の町議会で決議しました。それはスタンプ通貨と呼ばれるものでした。
 新町長のウンターグッゲンベルガーは、地域の貯蓄銀行から32000オーストリア・シリングを借り入れ、それを担保として32000オーストリア・シリングに相当する「労働証明書」という紙幣を作成しました。町は道路整備などの失業者対策事業を起こし、失業者に職を与えました。そして、その労働の対価をオーストリアの通貨であるシリングではなく、労働証明書で支払ったのです。もうお分かりでしょう。その労働証明書には減価する仕組みが組み込まれていたのです。

 労働証明書は、月初めにその額面の1%のスタンプ(印紙)を貼らないと使えない仕組みになっていました。具体的には、10シリングの紙幣は月が替わると0.1シリング分のスタンプを貼り付けないと10シリング分の紙幣として使えない仕組みになっていました。言い換えれば、月をまたぐごとに労働証明書は額面の価値の1%を失なうということです。そのため、労働証明書を手元にずっと持っていても価値が減っていくだけなので、それを手にした誰もができるだけ早くこのお金を使おうとして、消費が促進され、実際に景気が良くなりました。

 どれくらいの効果があったかの記録を見てみましょう。労働証明書は公務員の給与や銀行の支払いにも使われ、町中が整備され、上下水道も完備され、ほとんどの家が修繕され、町を取り巻く森にも植樹されました。この労働証明書発行まで町は税の滞納に悩んでいましたが、税金もすみやかに労働証明書で支払われるようになりました。中には税金の前払いを申し出る者まであらわれたと記録に残っています。その理由は説明の必要がないでしょう。こうして、ヴェルグルはオーストリア初の完全雇用を達成した町となりました。
 具体的な数字で検証してみると、当初発行した32000シリングに相当する労働証明書は、必要以上に多いことがわかり、町に税金として戻ってきた時に、その3分の1だけが再発行されることになりました。労働証明書が流通していたのはわずか13ヵ月半でしたが、その間に流通していた量は平均5490シリング相当に過ぎず、住民一人あたりでは、わずか1.3シリング相当に過ぎなかったということです。しかしながら、この労働証明書は、週平均8回も所有者を変えており、13.5ヵ月の間に平均464回循環し、254万7360シリングに相当する経済活動を生み出したといいます。これは通常通貨のオーストリア・シリングに比べて、約14倍の流通速度にもなり、大きな経済効果を生み出すことが証明されました。

 ヴェルグルの成功を目の当たりにした多くの都市はこの制度を取り入れようとし、1933年6月までに200以上の都市での導入が検討されたといいます。しかし、オーストリアの中央銀行によって「国家の通貨システムを乱す」として禁止され、1933年11月に労働証明書のシステムは廃止に追い込まれてしまいました。

 労働証明書の裏面には以下のように書いてありました。
 「諸君、貯め込まれて循環しない貨幣は、世界を大きな危機、そして人類を貧困に陥れた。経済において恐ろしい世界の没落が始まっている。いまこそはっきりとした認識と敢然とした行動で経済機構の凋落を避けなければならない。そうすれば戦争や経済の荒廃を免れ、人類は救済されるだろう。人間は自分がつくりだした労働を交換することで生活している。緩慢にしか循環しないお金が、その労働の交換の大部分を妨げ、何万という労働しようとしている人々の経済生活の空間を失わせているのだ。労働の交換を高めて、そこから疎外された人々をもう一度呼び戻さなければならない。この目的のために、ヴェルグル町の『労働証明書』はつくられた。困窮を癒し、労働とパンを与えよ」と。

 このことは地域通貨に関心のある人の間では非常に有名な話です。